【ngt 黒白】
僕は音楽の何をやっているんだろうと、いつも思う。細かく書いて「嘘っこ」は恥ずかしいので、大まか乱暴に書くと
「音楽は見える」ような気がする。 演奏中、セッション中、教え中。ふと相手の音、自分の音が立体となって耳で、頭の奥で白い光景が広がる中でなにかが降るように見える時がある。
聴く機会も面白い。失礼な話だけど聴いていると演奏者の 気持ちを勝手に分かったふりになる時もある。 でも、これはCDなどの記録媒体だと水で薄めたようになってしまう。やっぱり人間の生演奏は良いなあ
と感じる。
ピアニシモからフォルテシモまでダイナミクスのみならず気持ちや感度、不調和や
意外性が時に演奏に 起こる。でも案外、音楽って、それを聴いて、記憶や感度、無意識の揺さぶりが
感動させるんじゃないかな?なんて思ったりする。
僕のそういうことを思い始めたのは、修行時代、東京のある日である。時間が止まりスローモーション
になり景色が新しいキレイな極彩色に生まれ変わり素敵な音楽がそこら中にたくさん舞っていた。
そういう時間を実際は数分だったのだろうけど舞い降りた。
そこに僕はずっといたかったのだけれども、コインランドリーの音が舞い戻りふと我にかえった。
あれは何の音楽だった?光景だったのだろう?。 言葉にしない方がいい事もある。だから大事なことは
案外言葉で繕うと崩れて消えてしまうかも知れない。
なので演奏も「時」に身を委ねてもいいと思う。弾いても弾かなくても。ngtは2007年時点の記号と季語。
黒白(こくびゃく)はその極彩色の対極にあるもの。そっから眺めても面白いかもしれない。
弾いたり、弾かないことを弾いたり。
また、いろんな過去の生徒との出会いで気づいた発見とか、僕が学んだ 音楽を、確かに生徒さんに
伝わっていく感覚。まるで蔓(つる)が延びるよう、どんどんそうやって 伸びていく。そうやって
「僕自体」が音楽の巨大な樹木の幹の皮程度、愉しくて仕方ない。
そうやって 多くの人に出会い「時間を塗って来た。」だから演奏もレッスンもあんまり変わりない気もする。
音楽が、偶然と手にしたGuitarがまだどんなことを仕向けてくるのか分からない。
ngtと黒白は今時点 僕にとってのサンクチュアリ。多分得体の知れない名前の付けようのない演奏を指すと
思うけどそれで良い。
そう言うものも合っていいと「音楽」は言ってくれてる。 僕には聴こえてる。
【AGAPE】
新潟に帰郷後、参加したユニット「Agape」が伸び縮みしながら、演奏したり休止したりしながら続いている。ボイス&ボーカルの「高見はつ未」は意表をつき、何をやらかしてくれるか分からない期待を持たせてくれる。音楽は、もとより人生と言うか生き様がグルーブ感ありイエイ!としていて、ナイスだ。全く稀有な存在でインスパイアの種だらけのエネルギーの持ち主だ。
なので単なる歌伴奏と言う感覚とは違うのかな。続いている由縁でもあるし、高見はつ未は単なる歌手ではなく表現者として独特のスタイルを持っていて感銘を受ける。そんな高見はつ未に、いつも期待を込めて敬意を込めてユニットは続いている。